自分がワープア層かワープア層予備軍だって認めたくない人ほど弱者叩きをする。
(via miki7500)
2002年に出た本に書いてあって、当時読んでそうなるだろうな、と思った未来がここにある気がする。
なぜ“弱者”がいなくなるのか。これには大きく二つのしかけがある。
まず第一に、結果の平等と機会の平等では“弱者”の意味が大きくちがってくる。結果の平等の下では、“弱者”というのは不当な目にあっている人になる。持てる者と持たざる者の極端な格差、つまり極端な強い弱いの差自体が悪である以上、弱い立場の人間はつねに被害者である。機会の平等の下では、そうはならない。機会の平等における“弱者”はゲームにまともに参加できない人にすぎない。あえて嫌な言い方をつかえば、たんなる可哀想な人、になるのだ。だから、機会の平等を掲げる社会では、誰も自分を“弱者”と認めたがらない。認めれば、二級市民にされるからである。「弱者切り捨て反対」とか「弱者救済」を唱える政党が広い支持を集めるのもむずかしい。そういう政党を支持することは、自分が二級市民だと認めることにつながりかねない。競争を是とする社会のなかで、そしてついこの間まで、一億層中流意識のなかで「人並み」であろうと必死で努力してきた人々にとって、それは強烈に禁忌である。
こうして“弱者”は消え去っていく。構造的に不利益をこうむっている人、自分のせいでなく痛みを強いられている人たちの多くが、“弱者”と名乗ることも “弱者”とよばれることも欲しなくなるのだ。富の分配のあり方はまったく変わらなくても、機会の平等が正義になるだけで、自分を“弱者”だとする人数はずっと少なくなる。
結果の平等を掲げる社会では、「弱者がいる」は「正しくない」に直結する。それに対して、機会の平等を掲げる社会では「弱者がいる」は「正しくない」に直結しない。この社会で「正しくない」に直結するのは「不公平」である。したがって、構造的に不利益をうけている人たちに訴えかけるのも、“弱者”ではなく「アンフェアな目にあっている人」とよぶことからはじめるしかない。簡単にいえば、「弱者救済」というスローガン自体が耐久年数にきているのだ。 (佐藤俊樹, 『00年代の格差ゲーム』,中央公論新社, 2002, p33-34)
機会の平等の下では、「敗れた」のは当人のせいで、社会のせいではない。だから、「貧しいのだから正しい」とはいえないし、ゆたかさによって自分を肯定することももちろんできない。“敗者”は自分を肯定する術をもたないのだ。
それでも、実際に機会が平等であるならば、「自分の努力が足りなかった」と思って再起を図ることができる。再挑戦ができると信じているうちは、強い自己否定感から逃れられる。たとえずっと“敗者”でありつづけたとしても、それはあくまでも自分の責任であり、自己否定は自己のなかでとどまる。
裏返せば、機会の平等が確保されていなければ、この自己否定は他人に向けられる。自分が否定された苦しみを、他人も否定することで埋め合わせようとするのである。“敗者”からすれば、敗れたのは自分のせいではないが、周囲はそうと認めない。その分、否定感は鬱屈し、ある時爆発的に噴出する。噴出する相手、つまり身代わりの羊は誰でもいい。自分も不当に否定されたのだから、他人を不当に否定してもかまわない。現代風にいえば、「自分が不当に否定されたのだから、自分は他人を不当に否定する権利がある」と思うわけだ。
「不当評価」という意識が危ないのはそこである。
くり返すが、身代わりに否定されるのは誰でもよい。もし社会の外に標的をみつければ、煽情的なナショナリズムとなる。ナショナリズムの意義については意見がわかれるだろうが、他の国や他の文化を貶めてまで自分を高くしようとするナショナリズムは、国民国家にとっても危険である。不当評価による自己否定感の鬱積は、そういう自己破壊的なナショナリズムにも通じる。
もし社会の内に標的をみつければ、公然と私刑がおきる。攻撃する相手は誰でもよい。自分の身代わりになるのであれば、誰でもかまわない。それこそ目立つ人間であれば誰でも標的になりうる。集中攻撃をかけてつぶしやすいし、集中攻撃すれば、自分が反撃されてさらなる否定をくらう可能性も低くなるからだ。(佐藤俊樹, 『00年代の格差ゲーム』,中央公論新社, 2002, p40-41)
ジョック・ヤングの『排除型社会』でも「相対的剥奪」として書かれているな。
(via burnworks)(yaruoから)